父の旅立ち [介護]
とうとう父も旅立ってしまいました。
10月17日の深夜1時に「手足にチアノーゼが出ているようです」と連絡を受け、病院へ姉と姪とで向かいました。
それから父の息が止まる18日の午前2時まで丸一日、姉と二人で(姪たちは途中で離脱)一睡もせず付き添うことに…
父の呼吸は弱くなっていき、時々止まることもあったため、その度に「お父さん」と呼びかけて、また呼吸が始まり安堵する…の繰り返しで時間は過ぎていきました。

母はとても華奢で柔らかく、優しい手でしたが、父は大きくて安心する手。
意識レベルが低くても聴覚は最後まで残っているというので、いつもと変わらず新聞や雑誌を読んだり、話しかけたりしていましたが、さすがに徹夜が2日も続くと話すことも少なくなり、手を繋いだり頭をぎゅーっとしたりしていました。
18日の午前2時15分頃、父の呼吸が止まったことに姉が気づき、看護師さんへ連絡。
「誕生日がお父さんの命日になってしもた…」と姉がぽつんと言いました。
そう、10月18日は姉の誕生日だったのです。母が倒れてからというもの、毎日父の世話をしてくれていた姉。衝突することも多かったのですが、本当は姉のことが大好きだったのかな?と思いました。
葬儀社に連絡をして、病院でエンゼルケアをしてもらった父は午前4時に病室から出ていき、21日に告別式を執り行いました。
今回お世話になったお坊さんは、父が母と小学生の頃からの幼馴染で、献身的に母の介護をしたことに大変感銘を受けられたようで、父の戒名に母の名前を一文字入れてくださいました。
背が高く、肩幅が広くて筋肉質だった父は、斎場で係の方が「こんなにきれいに残っているのは見たことがない」というくらい、まるで理科室の骨格標本のようにきれいに骨が残っていました。
(母の時には頭蓋骨が欠けることなく丸くきれいに残っており、驚きました)
緩和ケア科で大変お世話になった先生やスタッフさんへの挨拶も済ませましたが、「実の家族だと思ってお世話させてもらっています」と心のこもった対応をしてくださった方々に、もうお会いできないかと思うと寂しい気持ちになりました。
まるで母の後を追うかのように、あっという間にいなくなってしまった父。
毎日姉が花の世話やゴミ出しなどをしてくれていますが、住人がいない実家は、がらんとしていて寂しいものです。
勉強が大好きだった父が残した大量の書籍や雑誌、レコードやCDが置かれている実家をぼちぼち片付けながら、父や母のことを思い出しています。
お父様のこと、心よりお悔やみ申し上げます。
サキヲさんもお姉さまも、まだお気持ちの整理もつかないでしょうし、ご実家の片付けも、いろんな思い出が溢れてきて大変だろうと思いますが、どうぞお疲れになりませんよう、ご自愛ください。
by オリオン (2024-11-13 16:35)
この度は、心からお悔やみ申し上げます。
お母様もお父様も旅立たれてお力落としのことと存じます。
心身共に大変な時だと存じますが ご無理をなさいませんように。
by simarisu (2024-11-13 20:35)
☆オリオンさま☆
恐れ入ります。
父が緩和ケア科に入る前、まだ呼吸器科の大部屋にいる時に、「(病院の)布団が重い」と言うので慌てて実家に戻り、母のお気に入りだった軽いガーゼケットを何枚か届けると驚いた顔で「そんな急いで持って来んでもええのに」と言いながら、「さっちゃん、ありがとう」と嬉しそうだったのが思い出されます。
その後すぐに鎮痛剤で傾眠傾向になり、声も出せなくなりました。
母の4年に比べると父は具合が悪くなって2ヵ月余りと、本当にあっという間でした。頑固な父でしたが、居なくなると本当に寂しいものです。
by サキヲ (2024-11-19 13:30)
☆simarisuさま☆
ありがとうございます。
在宅にできないものかと、姉と一緒に担当の先生と何度もお話しをしました。「様子を見ながら投薬を調節しているので、今の状態で在宅でのケアは難しいと思います。ほぼ眠っておられる中、毎日面会されているので、家に居る雰囲気を作ってあげれば良いのでは。具合が良ければ短期での帰宅も考えましょう」との先生のお言葉でしたが、日々綱渡り状態が続き、一度も帰宅させることができませんでした。
でも明るい雰囲気の緩和ケア病棟で好きな音楽を流したり飲み物を含ませたり、穏やかな日々を過ごすことができたのが本当に救いだと思っています。
by サキヲ (2024-11-19 13:53)